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水俣病 公害認定50年(2018年9月27日)への追記

水俣病 公害認定502018927日)に以下の西日本新聞記事を追加します。

貴重な記録です。全文は掲げません。いずれWEBページから消える恐れもありますので、必要と思う方は今のうちに永久保存措置を講じてください。

 

【ある役人と水俣病・公害認定50年】(2)猫発症「原因は魚だ」 18.9.24

その猫はよだれを垂らし、「奇病」そのものの姿態をさらしていた。「思った通りだ」。熊本県水俣保健所長だった伊藤蓮雄(はすお)は、膝をたたいた。

1957年4月、伊藤は保健所の1室を三つに間仕切りして猫を飼った。餌として与えたのは水俣湾産の魚介類。木箱の底に排せつ用の砂を敷き、中学生だった長男、隆一郎(74)が毎日、取り換えた。

ある朝、猫の異変に気付いた隆一郎が、すぐに伊藤を呼んだ。「『(原因は)間違いなく魚だ』と、父は大変興奮していた」

後日、その猫を熊本大医学部が病理解剖し、漁村で発病した患者たちと同じ病気であることを確認した。後に「水俣病」と呼ばれるその病が水俣湾産の魚介類を食べることによって発症する食中毒であることを、初めて科学的に立証した瞬間だった。

伊藤はすぐに湾内の魚の採取、販売を禁止する措置を取るよう県衛生部に掛け合う。担当者も同意し、検討が本格化した。伊藤は晩年、この時の心境をテープに吹き込んでいる。「これで万事、解決と。非常に喜んだ」

ただ、その前月、県の幹部はある方針を確認していた。「(チッソ水俣)工場との関係については、疑いは持てるが関係は不明という立場で臨む」。県内最大企業のチッソを優先する姿勢がその後、伊藤の楽観を打ち砕くことになる。・・・

【ある役人と水俣病・公害認定50年】(3)見送られた漁獲禁止| 18.9.25

 水俣病の公式確認から1年2カ月たった1957年7月。熊本県庁では、各部長など12人で構成する連絡会が水俣病を巡る問題に対応していた。トップは副知事、水上長吉である。

 水俣湾産の魚介類を猫に食べさせる実験を自ら手掛けた水俣保健所長、伊藤蓮雄(はすお)の働き掛けも奏功し、県は食品衛生法を適用して水俣湾での漁獲を禁止する方針をいったん、決める。

 同年7月30日、副知事室で開いた連絡会の決定が、県の公文書に残っている。「食品衛生法により販売目的の採捕を禁止する区域を告示する」

    ◇      ◇

 ただし、決定には付記事項があった。「今一応厚生省(現厚生労働省)と打合の上、行うものとする」

 法適用の権限は県にあったにもかかわらず、水上は、わざわざ可否を国に問い合わせるよう指示した。

 「後で問題が生じたら、県の責任になりかねないという心配もあったのだろう」。熊本大名誉教授(環境法)の富樫貞夫(84)は、水上に政治的配慮が働いたとみる。

 水上の判断は結果的に、国の消極姿勢を引き出す。9月、厚生省からの回答は「魚介類の全てが有毒化している根拠が認められないので、適用はできない」。

 県は結局、法適用を見送った。漁獲禁止の必要性を認めながら、なぜ-・・・

【ある役人と水俣病・公害認定50年】(4)昇進後「社の恩人」に 18.9.25

 水俣保健所長の伊藤蓮雄(はすお)は9年間、その任にあった。図らずもそうなった。

 1959年2月に就任した熊本県知事の寺本広作が後年、自著に記す。「伊藤保健所長を選挙後の人事案から外し、そのまま水俣に留任させることにした」。真意は不明だが、伊藤の長男隆一郎(74)は、知事選で前職を支持した伊藤への「報復人事」とみる。選挙違反に絡んだとして、伊藤は減給処分も受けた。

 59年末、患者とチッソは「見舞金契約」を結ぶ。対象者の判定は熊本大医学部教授や水俣市立病院長、伊藤ら7人の医師による審査協議会が担い、「認定=即補償」の枠組みができた。

 長い歳月、水俣の現実に向き合い続けた伊藤。補償に道筋が付いたと感じ、肩の荷を下ろしたのかもしれない。「どうやら騒ぎも一段落しました」。ある会誌に記し、63年8月、県庁に異動した。

     ∞∞

 67年に衛生部長に昇進し、県政中枢に入って以降、伊藤は以前とは「別の顔」を見せ始める。

 「ボクがありの侭(まま)に何もかも口に出したら会社は大変なことになるだろう」

 親交のあったチッソの元専務、故入江寛二が残した記録に、70年ごろの伊藤の発言がある。2人は、同じ高校出身の友人だった。

 68年9月の公害認定後、入江は再燃した補償問題への対応を一任されていた。伊藤について「知事の答弁もこの人が作るんです。(略)審査内容にも関与しているんです」と捉えていた。チッソに不都合な場面では「どうか黙っていて下さいよ」と拝み倒した。

 「だんだんわたしの気持ちも汲(く)んでくれて、会社の不利なことは、表向き言わない」ようになった伊藤を、入江は「(会社の)危急を救ってくれた恩人」と評した。・・・

【ある役人と水俣病・公害認定50年】(5)葛藤の末孫に「遺言 ...  18.9.27

 退職して6年後。1982年3月11日、伊藤蓮雄(はすお)は熊本地裁の法廷にいた。

 水俣病を発生、拡大させた責任を問うた第3次訴訟で、原告弁護団の要請に応じて証言台に立った。被告は国と、伊藤が奉職していた熊本県である。

 「法の適用が、(被害封じ込めに)強力であると思った」。57年に旧厚生省と県が見送った食品衛生法による漁獲禁止措置を巡り、71歳の伊藤は淡々と、法適用の有効性を述べた。

 尋問したのは当時30代の駆け出し弁護士だった松野信夫(67)。「『汚染がどんどん広がって非常に残念だった。悔しかった』という思いが証言に表れていた」と振り返る。「贖罪(しょくざい)の念もあったかもしれない」

 第3次訴訟で地裁は初めて国と県の責任を認め、食品衛生法による漁獲禁止についても「行使すべき義務があった」と指摘する。・・・

西日本新聞連載【ある役人と水俣病・公害認定50年】記事リンクまとめ ... 18.9.23

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プロフィール

Author:寿
農業情報研究所(WAPIC)=http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/の所長・所員・小使いを兼務。原発事故で「明るい農業・農村」の夢を失った老い先短い老人です。

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